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2.ニセ嫁修行、始めました。 その4

Author: さぶれ
last update Last Updated: 2025-05-25 23:00:39

 グリーンバンブーの営業時間は、11時〜15時がランチタイム、そして17時〜20時がディナータイムだ。

「中松」

 扉を開けると、案の定すぐ傍で待機していた。「五時からお店なんだけど、戻ってもいい?」

「婚約披露パーティーまでの期間、伊織様の夜勤は三成家での修行とさせていただきます。緑竹様からも許可を得ております。朝は七時半、午後は三時にお迎えいたします」

 つまり私は、午前中の短時間だけグリーンバンブーで働き、午後からは三成家で“ニセ嫁修行”に専念するというわけだ。

 付け焼刃では間に合わないと判断されたのだろう。元が元だけに。だからとにかく令嬢修行をしろ、と。

「それ、先に言ってくれない? 引継ぎもあるのに」

「でしたら、お店に電話なさいますか?」

「ええ。今日は琥太郎に頼むわ。土曜日だし、きっと焼き場に入れるはず」

「どうぞ。終わりましたらスマートフォンを返却ください。三成家にいらっしゃる間、通信機器はお預かりさせていただきます。必要な時はお申し付けください」

 スマホを返してもらい、早速琥太郎に連絡を取ると、すぐに出てくれた。

『はーい』

「あ、琥太郎? 私だけど」

『姉ちゃん? どうしたの? 修行、もう終わった?』

 琥太郎は、私が偽装結婚することに最後まで反対していた。

 私の身を案じてくれている結果だとは思うけれど。

「ううん、今日は五時からの営業に間に合わないの。悪いけど、焼き場お願いできる?」

『……そっち、泊まり?』

 な、なんて破廉恥な響き――顔が真っ赤になった。

「と、とんでもない! 終わったらちゃんと帰るから!」

『そ。良かった。さっさとその偽装嫁やめて、早く帰ってこいよ。俺が待ってるからさ』

 声色が明るくなって、琥太郎は電話を切った。ほっと息を吐いたところに、中松がスッと手を差し出してきた。

 ……忘れてた。鬼、まだ隣にいた。

 私から受け取ったスマートフォンを自分のジャケットの内ポケットにしまいながら、中松が冷ややかに言い放つ。「琥太郎様は、相変わらずのシスコンですね」

「ちょ、ちょっと……!」

「弟といえど、“好き”などとおっしゃらないように。一矢様の前でそのような発言をされては、ご気分を害されます。くれぐれもご注意を」

「わ、わかったってば!」

 そう言っている間に、鼻をぎゅっとつままれた。

「痛いっ! ちょ、中松!」

 ようやく解放されたけれど、鼻が赤くなった!

 ただでさえ低めの鼻が、これ以上ぺったんこになったらどうするのよ!

「じゃあもう、お風呂行ってくるから!」

 バンッと音を立てて扉を閉めた瞬間、

『貴婦人は扉を乱暴に閉めたりなさいませんよ』

 と、壁越しに中松の声が聞こえた。

 ……腹立つぅぅうう!

 はっ。油断してる場合じゃない! 気を取り直して素早くバスルームへ。

 浴槽も洗い場も広く、まるで高級ホテルのようなバスルーム。

 だが私の持参品はすべて“鬼”によって没収済み。シャンプーもリンスも、置いてあるものを使うしかない。

 黒くてお洒落な容器が三本。とりあえず右端のものをプッシュすると――香り高い泡が手に広がった。

 ……いい匂い。

 これ、一矢とお揃いなのかな。そう思ったら、ちょっとドキドキした。

 あのブルガリのシャンプー。昔、一矢に貰ったものがまだ家にある。もったいなくて使えず、机の奥にしまったまま。

 誰にも言っていない、私だけの小さな宝物。

 泡立ちの良いそのシャンプーで、丁寧に油臭さを洗い流す。

 焼き場の匂いがしっかり落ちて、なんだか少しだけ心が軽くなった。

 バスルームを出ると、広々としたパウダールームの大きな鏡に、タオル姿の自分が映っていた。

――『貧相でございますね、ふっ』

 ……って、脳内で中松の声が再生されて、悔しさが再燃した。

 絶対に言わせないから! 貧相なんて、もう言わせない!

 でも……Cカップにするにはどう頑張ればいいの!?

 牛乳飲む? マッサージ? とにかく、やれることは全部やる!

 見てなさいよ、鬼中松――!

 綺麗に見られたくて努力するのが“恋”なら、悔しくて努力するのが、私流の“闘志”。

 打倒・中松! 土下座させてみせます大作戦、ここに始動――!

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